『JOKER』感想 社会との距離

ネタバレあり。

前提として私の事前知識を書いておきます。ジョーカーというキャラに対する知識はノーランバットマン3部作だけです。ダークナイトは特に面白いとは思いませんでした。

世間でのこの映画の扱われ方がおかしい

この映画は世間で絶賛されていて、私は特に見るつもりもなかったのですが、anttenという人が感想ブログを上げていてじゃあこれみんなで各々見に行って感想書く流れなんだなと思い予定を作って見に行って感想を書いているけれど現時点でantten以外に投稿なし。俺はジョーカーかよ。HAHAHA。

で、感想なんですが、この映画を公然と絶賛してる人って頭おかしくないですか?いや、世間ではもっとこの映画は「つまらなかった」「変な映画だった」「キモイ」「ウェインさんが殺されて可哀想だと思った」みたいな感想で占められるべきなんじゃないかと。それで一部の精神異常者が褒めちぎって、親御さんが「見ちゃいけません!」って子どもの手を引っ張って横を通り過ぎるみたいな。そういう扱われ方を受けるべきでしょうよ。だって徹頭徹尾、変な奴が気持ち悪い妄想を繰り広げるだけの映画なんだから。いや、社会福祉を削減するとキチガイが世に放たれますよって警告の映画?みたいに受け取ってる人がいたとして、まずそれは本筋じゃないし、あとそんな受け取り方をする方が残酷だから。それで何を本題にするかというと、私の個人的な感情を本題にします。

テレビっ子の夢

私も子どもの頃は今で言うくだらないテレビをよく見ていたし、自分がテレビに出ている妄想をよくした。ゲストとこんなトークがしたいとか、妄想していたよ。子どもの頃はね。とんねるず食わず嫌い王決定戦に出て嫌なものを食べつつ演技する妄想とか、マジカル頭脳パワーに出て板東英二に絶賛されつつ優勝する妄想とか。でもそれは子どもの頃に思っていただけで、子どもの頃だから許されて、今そんなことを思っていたら恥ずかしいはずなんですよ。そういう恥ずかしいことを考えていたなというのを思い出さされることになって、そして今でもそういう妄想は封印してるだけで無くなったわけではないことに気づかされて、恥ずかしくなった。ジョーカーみたいに振る舞いたいけれど社会の力で抑えているんだなと。

妄想と現実

中盤までジョーカーって社会的に終わってるけれどそこそこかわいい女とヤレるんじゃん、なんだよリア充死ねよと思いながら見ていると、それはジョーカーの妄想だったことが明かされる。これによって終盤のバラエティ番組に呼ばれるところもこれはジョーカーの妄想なんだなと見る側は予想しながら見ることになる。この時に気付かされるのだが、私はバラエティ番組にお笑いスターとして呼ばれることを妄想するくらいに望んでいるのはもちろん、お笑い番組に笑われるだけのゴミとして呼ばれることすら望んでいるほどの状態なんだなってこと。ジョーカーは妄想なのだから自分のお笑いが認められる妄想を描いても良かった、でもそうじゃない、自分のお笑いが認められずに撃ち殺すことも喜びなんだと。これに私は恥ずかしながら共感してしまう。これは現実で弁護士に殺害予告をしたりとかしている連中と全く同じ思考で危ないのだが、もうなんでもいいから社会に存在を認識されたいんですよ。テレビニュースになっているカットが象徴的なのだが、みんなにヒソヒソ話題にされたい。白い目で見られたい。私にそういう欲望(そしてその欲望は叶わない、妄想でしかない)があることを晒け出させているのがこの映画なんじゃないか。

終わりに

だからみんながこの映画を絶賛しているのを見ると、お前に社会はないのか?と感じる。みんなはもっと社会の中に生きていて、こういう映画を面白がりつつもそれを表に出すのは恥ずかしいと判断して、一般には「いや、この映画は暗くてよくわからなかったな」「ダークナイトの方が面白かった」「怖かった。社会の闇を感じた」みたいな感想を投稿すべきなんじゃないのか。そんな感じで、それは映画ファンがノイジーマイノリティであるからこうなっているのかなとか、もう社会(=秩序)は壊れていて混沌が支配しているのかなとか、そんなことを思ってしまったよ。